さなぎビルディング
僕は建造物に関心がありますが、建築全般に興味があるわけではありません。
関心の薄い建築で言うと、有名建築家による造形美と機能美を兼ね備えた洗練された建築。その素晴らしさを理解することはできますが、心を持って行かれたことは無いのです。
高層ビルが次々に建設されるこの時代、建設途中のビルをよく見かけると思います。
僕はよく、この状態で建設を止めてほしいなどと思ってしまいます。つまり完成させないでほしいのです。
剥き出しの鉄骨とその奥の暗闇。
完成の状態とはまた違ったイビツな造形のリズム。
設計者が目指す整理整頓された「デザイン」とは全く関係のない、おどろおどろしいさなぎの中身のような姿に心がざわつきます。
現在建設中のこちらのビル。
完成予想図が張り出されているのですが、そのシンプルな造形とガラス張りの清涼感とは程遠い、複雑かつ重量感のある姿です。
こちらは何年か前に撮ったもの。
巨大なビルの建設途中ですが、鉄骨の状態だとかなりの圧迫感があります。
もうとっくに完成しているはずですが、その姿はまだ見に行っていません。
こちらはマンションの建設現場ですが、ちょうど全体の鉄骨が組み上がった時の様子です。
床や天井が無いせいでマンション全体の容積がよくわかります。こうして見ると、約20世帯分とはいえ人の居住空間はこれだけ巨大なのです。
そしてこのようなマンションやオフィスビルが、ゾッとするほど沢山存在します。日本にどれだけ沢山の人が生きているかが実感できる上に、その中のたった一棟のマンションでさえもこれほど精密に綿密に造られてきたのです。
この途方もない積み重ねを想像すると頭がボーッとしてきます。
タワークレーン②
僕の自宅の向かいには、最近新しく建てられた巨大なマンション群が建ち並んでいます。
もとの古い団地を取り壊し、数年がかりでマンションは完成しました。
このような大きな建物の建設には必ずタワークレーンが稼働するものです。
家の向かいに随分長い期間巨大なタワークレーンが佇んでいたため、僕は毎朝毎晩そのタワークレーンを愛でながら過ごしました。
深夜の建設現場で、ライトも消えて眠るように動かないクレーンの姿はいささか不気味さを纏っています。
ある日、クレーンが2機追加されました。
クレーンは組み立て式になっており、トラックで運ばれたのちに現場で組み立てられます。
そして組み立てるのも無論、クレーンを使って行われます。
では現場で1番最初に出現したクレーンはいったいどうやって組み立てたのか。
と思うところですが、タワークレーンはクレーン車が組み立てるので、卵が先か鶏が先かみたいなことにはなりません。
2兄弟から4兄弟になり、スムーズに鉄骨などの資材を組み上げ、しだいにマンションが完成しました。
なかなか家の目の前で毎日4機のクレーンにお目にかかれるなんてそうそう無いチャンスでしたが、いつまでもボーッと眺めていてはご近所から気持ち悪がられるので、通りすがりに目をやる程度しか見ることはできませんでした。
鉄骨や大まかな外壁が組み上がった時点で、4機のクレーンはいつのまにかいなくなっていました。真新しいマンションが出来上がったあとは、煌びやかな外観を眺めながらもなんだか呆気ない心持ちでいます。
つい先日、隣町のビル建設現場に4機のクレーンが空高くそびえていました。
もしやあの4兄弟か!?などと思いつつしばらく下から眺めていました。
曇りのダークグレーの夜空に真っ赤な航空障害灯が灯り、美しいコントラストをつくっていました。
いま写真を載せてみて気が付きましたが、柱の構造が違いました。向かいのマンションのクレーンよりこちらのほうが巨大なタイプのようです。
あの4兄弟もおそらくまたどこかの夜空の下の建設現場で、静かに佇んでいるのでしょう。
計画性について
今週は締め切りの作品を仕上げることに根を詰めておりました。
最近はこれまで以上に作品の密度を上げることを心がけて描いていることもあり、一枚一枚にとても時間がかかります。描くこと自体にもそうですが、それ以上に絵の細部に何を構成するかを考えることにいちいち時間がかかってしまいます。
しかし今回は比較的スムーズに事を運び、締め切り前夜に徹夜することもなく無事作品の画像を提出することができました。
思い返すと、締め切り前夜にバタバタしなかったのは初めてかもしれません。
大学時代にはよく二徹して講評会に作品を提出していました。無茶のできる若さがあった頃はそのような無計画な制作でも無理やり乗り越えられていました。当然、講評会中は自分の番が回ってくるまでウトウトしていましたが。
学生生活が終わり体質も変わってきたのか、一晩でも徹夜すると翌日は全く役に立たない廃人と化すようになりました。
そのせいで色々と人に迷惑をかけるなど失敗をしてきたので、無理をしないための計画性の大切さを、いい大人になってやっと思い知り今に至ります。
ただ、絵描きの場合は計画を立てるにも限界があるのです。
きっちりと順序立てて期限までに余裕を持って描くことで作品はしっかり完成するでしょう。しかし良い作品ができるかどうかは全く別問題なのです。
締め切りが迫っているのに良いアイデアが浮かばず、どうにか捻り出しギリギリに完成させたことによって作品にある種の熱が込められることもあります。
絵描きに限らず、漫画家も小説家もコピーライターも音楽家もおそらくそうです。
何でもかんでも逆算して破綻も起こさずピンチも迎えずに仕事を行っていると、制作活動が単なる作業と化していくでしょう。そしてそれは鑑賞者、受け取る側に伝わってしまうものです。完成度を上げることはできても作品の価値を下げてしまうことに繋がりかねません。
計画の大事さもわかりつつ、それでも破綻とピンチに臆さずにありたいものです。
とまぁ、計画立てが下手くそなことに対する免罪符でもありますが。
久々の大学訪問
先日、仕事の関係で出身大学に行ってきました。
去年の秋頃に一度訪れているので久々と言えるか分かりませんが。
僕が院を修了したのが4年ほど前。もちろん学生の顔ぶれは一新しているのですが、僕の同期が助手をやっていたり、研究室の先輩が非常勤講師を務めていたりと、どうやら顔見知り達が大学に戻ってきているタイミングのようです。
同期の中には既に作品が売れまくっている人、海外で活躍している人、学部1年の時から美術作家デビューをしておりキャリアを積み続けている人などもいます。
僕も作家デビューは学部の最後の方だったので比較的早い方だとは思いますが、果たして当時と比べて何か変わったのか?作家として尊敬されるような存在になっているのかと疑問に思いながら日々制作をしています。
現在在学している学生達も大変意欲的で、レベルの高い顔ぶれが揃っていることでしょう。
彼らからすると僕は当然先輩であり、大学に入る前から僕の作品を知っていたという人も中にはいるかも知れません。
しかし僕はたとえ彼らと直接話す機会があったとしても先輩風を吹かすことができません。まぁもともとの性格も理由の一つですが、やはり尊敬に値する人物像になれている気がなかなかしないのです。
突然売れっ子になって天狗になるのも嫌ですが、先輩として後輩に手本を示すことは務めであると思うので、後に続く人に提供するためにもっとたくさんのことを吸収しなければならないと、母校を訪れてそんなことを感じました。
そのための人脈を築くためにもまずは付き合い下手を直すところから努力しなければ…