雨の日に聴く曲④
雨の日に聴く曲シリーズ、今回をラストにしようと思います。考え始めるとあれもこれもと紹介したくなってくるので。
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Kim Hiorthøy / Evil House,Evil Day
以前にも紹介したKim Hiorthøyからもう一曲ご紹介。(ちなみに読み方はキム・ヨーソイ)
セカンドアルバムに収録されたこの曲は、彼の真骨頂である“記憶の底を弄る”系の楽曲である。
①の投稿で詳しく書いたので省略するが、なぜか幼い頃に聞いたことのあるような音が満載で心がざわつくのだ。
保育園から帰ってきて、夕飯までの空白の時間を一人遊びしながら過ごす雨の日の憂鬱。
風邪で小学校を休んだ日の午前、テレビ番組もつまらなくなってきた時間帯に挟まる謎のCMソング。
そういったことを思い出させる。
この曲の後半に本物の雨音っぽい音声がサンプリングされていることもあってか、なんとなく雨の日の印象が強い。
荒井由実 / 雨の街を
1973年リリースのファーストアルバム「ひこうき雲」に収録された、ユーミンの初期の名曲。
タイトルの通り、雨の曲である。
この曲をしっかり認知したのは数年前なのだが、雨の時期には必ず定期的に聴くようになった。
メロディーと歌詞の美しさはもちろんのこと、前奏のピアノの旋律が非常に雨っぽく美しく、濡れたアスファルトにヘッドライトや曇り空が映り込む様子が鮮明に頭に浮かぶ。
夏が終わり秋に差し掛かった頃の、突然の夕立ちにびしょ濡れになりながらこの曲を聴き、トボトボと家路に着きたいと、聴くたびに思う。
まぁ濡れるのが嫌なので確実に傘はさすのだが。
この曲をたまにカラオケで歌うのだが、ユーミン独特のあの虚ろな感じがどうしても出せないのだ。お涙頂戴感は一切無く、かといって決して明るくはない、絶妙な仄暗さが歌えるようになりたいものだ。
雨の日に聴く曲③
今週のお題は変わってしまいましたが、引き続き雨の日に聴く曲のご紹介をいたします。
今回はUKロックバンドで揃えてみました。
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Thirteen Senses / Gone
2005年リリースの彼らのファーストアルバム「The Invitation」に収録された楽曲。高校2年生の悶々とした時期にたまたまCDショップで視聴して惚れ込んだ1枚。
収録曲のほとんどがマイナーコードで、物悲しいバラードの数々で構成されている。作詞作曲はボーカルのウィルが担当しており、それまでの人生の半分ほどを費やし書きためた楽曲を厳選してファーストアルバムが作られたそう。
幼少期からマイナーコードの曲が好きだった僕にとってはたまらないアルバムだった。
1曲目から泣かせにくるような選曲になっており、イギリスならではの透明感がメロディーにも演奏にも歌声にも表れている。
高校生なりに、人間関係や自分へのコンプレックスなど日々の鬱憤に苛まれていた時期が誰にもあったことと思う。その当時のメンタリティーにすっと馴染む浸透圧と優しさと悲しさが詰め込まれた楽曲群なのだ。
「Gone」という曲はその中の3拍子のバラードで、アルバム内では比較的存在感の薄い曲である。しかしこれがまた絶妙に物悲しく雨模様の心情にピタッとくるのだ。3拍子というのは自分にとっては雨のリズムなのかもしれない。
TRAVIS / Somewhere Else
2003年リリースのアルバム「12 Memories」に収録されている曲。
TRAVISといえば僕の大好きなRadioheadとともに90年代のUKロックを牽引したうちの1組ともいえるバンドである。僕が初めて聴いたのがこの「12 Memories」というアルバムで、これもTSUTAYAのCDレンタルでたまたま視聴したのが出会いだった。キャッチーでメロディアスな楽曲が彼らの特徴なのだが、それ以前のオリジナルアルバムとは一線を画すほどになんとも寂しいメロディーに満ち溢れた1枚だと感じ、即レンタルし聴き込んだ。
その当時は高校3年生の冬、最初の大学受験の時期であった。
大学受験の厳しさをなんとなく肌に感じていた時期に出会ったため、かなりシリアスな印象がこのアルバムの一曲一曲に刷り込まれている。
経験不足ゆえに予備校での制作が思うように成長しない日々を過ごし、私大受験で惨敗を期したことでさらに自信を無くしていった。
第一志望の一次をたまたま運良く通過し、続く二次試験の結果発表の会場で自分の番号がないのを確認し、この曲を聴きながら予備校に帰った。したがって、この曲は自分の甘さを思い知らしめた曲としてインプットされたのだった。
思い出の曲がネガティブで物寂しいものばかりというのはなんとなく虚しさを催すが、その虚しさこそが雨天の心情に近しいものなのだろう。
この「Somewhere Else」は伴奏の鉄琴(?)が雨音を思わせ、そこまで暗い曲調でもないがいつまでも晴れ間の見えなさそうなどんより具合が印象的で、このアルバム内でも特に雨の日のリピート率が高いのだ。
雨の日に聴く曲②
今週のお題「雨の日の過ごし方」
いまいち、梅雨なのかそうじゃないのかはっきりしない今日この頃ですが、今回も今週のお題から派生して雨の日に聴く曲をご紹介したいと思います。
前回の記事
Little People / Unsaid
こちらは大学院生だった頃にiTunesサーフィンをして見つけたアーティスト。
僕は自分にしっくりくる音楽を手当たり次第に探すことがよくある。
「Mickey Mouse Operation」という彼らのオリジナルアルバムに収録されている楽曲で、アルバム全編を通して夜の空気を纏っている感覚がある。音楽のジャンルは何とも言い難く、エレクトロニカなのかラウンジなのかテクノなのか。基本的にはドラムやピアノなどの生音に加え様々なジャンルの音楽をサンプリングして構成されていて、ベートーベンの「月光」を使用している曲もある。
「Unsaid」はこのアルバムの中でも特にグッタリとした湿度のある楽曲で、雨の夜によく馴染む。聴くとどうしてもジトジトした都市の疲労感を思い浮かべてしまい、新橋や神田あたりの雑居ビル街の室外機からゆるゆると流れ出たぬるい空気が、湿った道路を低空飛行したのちに夜空に溶けていく様子を妄想してみたりする。
途中から女性のボーカルが加わるのだが、メンバーなのかゲストボーカルなのか。他の曲にもその声は出現するのでおそらくサンプリングではない。
しかし彼らの情報になかなかたどり着けず、そもそも“彼ら”なのかすらよくわかっていない。
一応Apple Musicでは聴ける。
安全地帯 / 恋の予感
玉置浩二がボーカルを務めるバンド、安全地帯のヒット曲である。
1984年リリース、僕はまだ生まれていない。
玉置浩二と言えば1996年リリースの「田園」のイメージだった。小学校低学年の時に大ヒットし、借りたシングルCDをカセットに録音したものを死ぬほど繰り返し聴いたが、その頃からも一応、安全地帯というバンドをソロ活動以前から組んでいたことは何となく知っていた。
しかし安全地帯の曲には幼少期から触れていたようだ。かなり小さかった頃にテレビCMで使われていた曲が頭に残っており、大人になってからそれが安全地帯の曲だったことを知った。
もともと昭和の歌謡曲のカセットを親に聴かされて育ったため馴染みが深いが、大学に上がったあたりから再び歌謡曲を聴くようになり、安全地帯もその頃から好きになった。
物心ついた頃にはすでにおじさんだった玉置浩二のアクの抜けたポジティブな魅力とは全く異なる、青臭く尖った楽曲がとにかく良いのだ。
華やかな時代の裏側の冷めた空気。夜を走る車での無言の時間、その車窓に流れていく夜景。ビールと汗と香水の匂い漂う繁華街。
あぁ、憧れの風景である。
「恋の予感」は3拍子のリズムが特徴的で、当時の都会の空気そのものを描いたような、美しいメロディーと歌詞の曲である。Aメロでキーボードが刻む3拍子がどことなく雨を連想させるので、梅雨の時期に合う気がする。
これに似た3拍子のリズムの曲で「微笑みに乾杯」というこれまた良い曲があるのだが、やはり都会の虚しさを纏った「恋の予感」を今回は推したい。
雨の日に聴く曲①
今週のお題「雨の日の過ごし方」
初めてお題を取り入れてみました。
僕は雨が嫌いです。
とにかく靴が濡れるストレスに耐えられない。
ここ数年はレインブーツを愛用しているのでそれも少なくなりましたが、レインブーツとて完璧ではない。履き続けていれば古くなって浸水してきます。
そして傘。
平安時代の頃から雨対策といえば傘です。数ある日用品の中で1番進化が遅い道具なのではないでしょうか。そろそろ画期的な雨避け方法が開発されてもいいのでは?と思ってしまいます。
湿気も苦手です。髪がボサボサになるし、湿度が高いと何となくグッタリして、1日の疲労度が上がる気がします。
洗濯物も乾かないし。
しかし雨の日の陰鬱さは嫌いではありません。
一日中外の景色が青白く、人々の感情もどことなく冷めている気がして、自分もスッと冷静な心持ちでいられます。
普段僕は制作中や移動中はお気に入りのラジオ番組やPodcastを聴いて過ごすことが多いのですが、雨の日は音楽を聴く頻度が増します。
雨の日の憂鬱さを吹き飛ばしたいという人は晴れやかな曲を聴くのでしょうが、僕は憂鬱な気分に浸るために憂鬱な曲を聴いてしまいがちです。
というわけで、今回から数回に分けて雨の憂鬱に浸れる曲をご紹介します。
Kim Hiorthøy / Träbit
大学1年の時にTSUTAYAのCDレンタルコーナーでたまたま見つけたエレクトロニカ系のミュージシャン。ノルウェー出身で、楽曲制作のみならず様々な芸術分野で才能を発揮しているそう。
彼の音楽に通底するのは「幼い頃の記憶の断片」である。楽曲に使用されるレトロでマニアックな電子楽器の数々が独自の音世界を構成しているのだが、「小さかった頃にどこかでこの音を聞いたことがある」と錯覚させる不思議な力を持っている。おそらくそれは彼自身の記憶の断片でもあるのだろう。
日本から遠く離れたノルウェーの地で同じ音を聞いていたのだとしたら、人は土地や文化に関わらず似たような感覚で幼少期を過ごし、同じ音に反応し記憶する生き物なのかもしれない、などと考えてしまう。
このTräbitという曲は彼の最新アルバムの一曲目に収録されているもので、ピアノをメインにした楽曲である。このアルバム自体がピアノの旋律をフィーチャーしており、これまでの作風からは一線を画した内容となっている。以前までの謎の電子楽器をほとんど使用していない分、幼い記憶を弄られる感覚はやや薄めなのだが、微妙に調律のずれたピアノがアルバムの中で何度か使用されていたり、同じフレーズを弾いては途切れ、また繰り返すあたりに「ピアノのお稽古感」「バイエル暗譜感」があり、懐かしくも物悲しい気分になる。
AIR / Alone In Kyoto
以前にも紹介したAIR(エール)。
こちらは2004年発売のアルバム「Talkie Walkie」に収録された楽曲であり、ソフィア・コッポラ監督の映画「ロスト・イン・トランスレーション」の挿入歌でもある。
タイトルの通り、映画内でスカーレット・ヨハンソンが一人小雨降る京都の神社を散策するシーンで使用され、非常に印象的だった。
しとしとと雨音だけが聞こえる緊張感、空気の冴え渡る感覚がよく表れていると感じる。
雨の憂鬱に合うというよりは、雨のもたらす静けさにぴったりマッチするといった印象か。
そう思い、映画を見返してみたところ、そのシーンでは雨など一滴も降っていなかった。
スカーレット・ヨハンソンが神社ですれ違った花嫁行列が大きな朱傘をさしていたのが何となく雨の印象に結びついたのかもしれない。しかし曲を聴くとどうも小雨の風景が思い浮かぶのだ。
勝手な解釈だが、おそらく日本=雨というイメージが彼らの中に強くあるからではないかと思う。他の楽曲にも、和楽器を取り入れたり日本古来のメロディーラインを彷彿とさせるものがあり、日本の音楽だけでなく情景や気候にも思い入れを持っているのかもしれない。
本日はここまで。
紹介したい雨の日の曲がまだまだあるのですが、どうにか絞って紹介していきます。
次回も何卒。
橋脚
男児には「電車期」というものが存在します。全員ではないのですが、電車やSL、新幹線などの鉄道に夢中になる時期を多くの男児は経験します。(電車期は勝手に作った造語です。)
御多分に洩れず僕も3歳頃から「電車期」が始まりました。
鉄道の路線の名前を覚えてみたり、鉄道の写真がたくさん載っている絵本を読み聞かせてもらったり、新幹線に出くわすとテンションMAXで騒ぐといった期間がありました。
思うに、いわゆる鉄ちゃんはその「電車期」が終わらなかった人なのでしょう。
僕は自分の「電車期」の終わりをよく覚えています。
それまで新幹線を追いかけ回していたはずなのに、気付くと僕は新幹線が通る鉄橋になぜか大興奮していました。
数メートル上空にそびえる鉄のアーチを見かけては、一緒にいた父親に大声で報告していた記憶があります。
造形美を感じ取っていたのではなく、その重厚な質量にときめいていたような気がします。
それまで騒いでいた新幹線がすっぽり通ってしまうほどの圧倒的なデカさ。しかもそれが空中に渡されているのです。
思い返すと、僕のインフラ構造物好きはなかなか年季が入っています。
当時の友達に鉄橋の魅力をアピールしても彼らには全く響きませんでした。
まぁそれは今も変わらないのですが。
今でも鉄橋は好きですが、特に橋脚に目が行ってしまいます。橋脚とは鉄橋や高速道路を支える柱の部分です。
都市風景の中には謎の巨大人工物がいくつも隠れています。普段はそれぞれが都市の機能を担っていることで日常風景に溶け込んでしまっていますが、機能を奪ってしまえばたちまちそれらは巨大でシュールなオブジェに見えてくるはずです。
僕の橋脚コレクションの一部です。
ぜひ、その上に乗っている線路や道路がない状態を想像してご覧ください。
新幹線の線路を支える橋脚。
コンクリート製でかなり古く、雨ざらしの跡が年月を物語っています。
高速道路の橋脚。
線路も道路もこのT字の形が一般的なようです。
最近はこのようなY字のものもたまに見かけます。
T字のものと比べるとこちらの方が何となく軽やかな印象を受けますが、僕はT字の重そうな感じの方がグッときます。
高速道路や高架橋の建設現場でははじめに橋脚の建設から行うので、橋脚だけが遠くまでズラリと建ち並んでいるシュールな光景が見られます。それこそ「機能を奪われた状態」であり、なかなか非日常的で壮観な景色です。
以前、新木場の方でその景色に遭遇したのですが、パソコンのどこにその時の写真を保存したかわからなくなってしまいました。悔しい。
美術系高校②
今回も高校時代のお話。
前回の記事
高校入学当初、女子たちのファッションの振り切り具合に衝撃を覚えましたが、もう一つ驚いたのが美術の授業の多さでした。
まぁ美術系なので当然ではありますが、一週間の授業の3割以上が美術なのです。
月曜日
1限目、国語
2限目、数学
3限目、美術
4限目、美術
5限目、英語
6限目、地理
火曜日
1限目、美術
2限目、美術
3限目、体育
4限目、生物
5限目、美術史
6限目、英語
他の教科のスケジュールは定かではありませんが、このくらいの比率で毎日美術の授業があり、毎日絵を描いていました。
クラスメイトたちはファッションのみならず、美術に対する熱意やプライドも並外れていました。
中学時代から予備校に通い、美術校の実技対策に明け暮れただけあってデッサン力はバリバリです。
色々な美術作家も知っており、友達と情報共有しつつ知識比べに闘志を燃やすタイプの人が多かった印象です。
僕はその熱意と闘志に満ちた学びの場のムードに気後れし、初めはなかなか居場所が見つけられずにいました。
数少ない男子生徒たちで何となく隅っこに寄せ集まって、女子勢に圧倒されながら遠巻きにして眺めていました。
しかしその闘志は僕にとって大きな刺激になっていきました。
やはり発想や感覚が並外れているのです。
驚くような色使いもあれば、見たこともない斬新な発想など、次々に強烈な作品を彼女たちは生み出していきます。
本人たちも訳がわからず直感に従って手を動かしているし、第三者が見ると尚更わけのわからない表現もありましたが、とにかくひとつひとつの作品が「カッコいい」のでした。
彼女らには一生追いつけない、そう確信していました。
しかし3年間ともに美術を学んでいく中で、自分にも様々な気付きがありました。
突飛な発想や独自の視点というのは選ばれし者の特殊能力のようなものだと思っていたのですが、自分の思考を注意深く分析しながら日々過ごしてみると、案外自分も色々と複雑な感情を抱えているし、自分でも意外なアイディアが顔を出す瞬間があるのです。
気が付いていないだけで、実は誰もが興味深い思考と体質の持ち主なのです。彼女たちは高校1年生にして、きっとそのことに気が付いていたのかもしれません。
高校を卒業してしばらく経ちますが、あれだけ美術に情熱を傾けていた彼女たちの中にも美術から離れてしまった人が沢山います。
おそらくは今頃、各々の分野でその熱意が光っているのでしょう。情熱さえあればどんな場所でも大成していけるものだと思います。
そして引き続き美術業界にいるクラスメイトの中にはすでに売れっ子として名を馳せている人もいます。僕も頑張らねば…
3年通して、男子チームは押されっぱなしだった気がします。
高校生にもなると男子は随分と大人の見た目に近づき、頼もしさも出てくるものだと思いますが、やっぱり女子優位の世界でした。
決して性格がキツいとかいう話ではありません。穏やかで人当たりも良くおしとやかですが、根っこの強さの点で僕らは決して敵わない気がします。
少し前にクラスの何人かで同窓会を催したのですが、みんな特に老けることもなく当時のままといった印象でした。
大人の年齢に達してから随分経つので、当時のようなメラメラはさすがに露呈していませんでしたが、やはりどこか内に秘めた熱が感じられました。
彼女たちにはこのまま突っ走ってもらいたいな。
僕も頑張ってついて行きます。
美術系高校
Facebookで高校時代の友人が活躍している記事が流れてきて懐かしく思い、今回は高校の頃について書こうと思います。
僕が通っていたのは公立の美術系の高校で、とても少人数の学校でした。
入試では学科と実技の試験があり、高校入試と言えどそれなりの画力が問われます。
デッサン力が特別あったわけではなかった僕は恐らくギリギリラインでの合格だったのだろうと思います。
一学年に2クラスしか無く、クラス替えはありません。男女比は圧倒的に女子が多いという変わった形態の学校でした。
僕のクラスの男子は40人中6人。入学当初は何かの間違いで女子校に紛れ込んでしまったような気分でした。
その上うちの高校には制服が無く、ファッションに関する禁止事項が全くありませんでした。
中学までの厳しい風紀管理から解放された女子高生は、威圧感抜群のぶっ飛びファッションで毎日登校して来ました。美術系ということもあり各々が個性の比べ合いに命をかけ、教室は原色の洪水のようなド派手女子たちに溢れていたのです。
普通の高校なら金髪にしただけで相当目立ちますが、うちの高校ではそれは大人しい方です。
緑と金のツートンカラー、姫カットで毛先だけショッキングピンク、パーマのかかったモヒカン女子、銀髪坊主女子。
補導されても文句言えない頭です。
当然その派手な頭に釣り合う、派手な服装をしています。
右脚は黄色、左脚はピンクのタイツ、平野ノラにも勝てそうな真っ赤なジャケット、もう穴を開ける場所が見つからないほど無数のピアスに埋もれた耳。
それでいて彼女たちは至って普通の、むしろ穏やかで奥ゆかしいタイプの女子でした。
他校のちょっと制服を着崩した茶髪女子高生にビクビク怖がっていました。自分たちがどれだけ近隣住民を怖がらせていたかも知らずに。
とまぁ、そんな特殊な顔ぶれと歪な環境の中で美術と一般教養を学ぶという、刺激的な3年間を過ごしました。
今回はここまで。
また続きを書きます。